【社員ヒストリーvol.1】農業高校出身!異色の経歴でWEB制作会社代表…!?
プロフィール です!!
岩倉俊之さん
この人の所属企業・組織
rm-creativeが大事にしていること
『ひとつでも多くの笑顔をつくり 一緒に愉しめる人を増やし続けていく』 どんな仕事をするかより誰と仕事をするか。 技術、能力も重要なことですが、 それよりも、一人ひとりの考え方や姿勢が一番大切だと思っています。 スタッフ、パートナー、クライアントの垣根を越え、 同じ方向を見て、ともに取り組んでいくこと。 そうすることで、自然と笑顔が生まれ、 一緒に愉しむ関係になれると信じています。 結果、よりよいものをつくることができ、 その先で、はじめて社会貢献ができると考えています。 一緒に『笑い』『愉しめる人』たちを増やし続けながら 世の中に貢献していきます。
現在募集中の職種
rm creativeのメンバーってこんな人たち!
rm creativeはWEBサイト、WEBコンテンツを中心に制作するディレクター集団です。現在のメンバーは5名。少人数の会社だからこそ、次期メンバーになる方にも社員のみんなのことをよく知ってもらえたらと思っています。そこで弊社スタッフみんなの人となりやキャリアがわかる【社員ヒストリー】を紹介していくことにしました。初回は、弊社代表の岩倉に自身のこれまでの歴史を振り返ってもらいました!
幼少期~小学校時代はどんな子どもでしたか?
外だと活発、家では物静かな子どもだった
男3人兄弟の真ん中として育ちました。兄と弟が非常に活発だったので、バランスを取るように家では物静かな子どもでしたね。でも、外に出ると活発なタイプだったと思います。 小学校1年生からサッカーをはじめて、一応中学3年生まで続けました。サッカー自体は決して上手くはないのですが、チーム内では誰よりも声を出して勝つためのムード作りを一生懸命やっていた記憶があります。
3兄弟の真ん中で…
青春真っ只中、中学・高校時代はどのように過ごしましたか?
競馬ゲームをきっかけに、単身北海道の農業高校へ!
競馬ゲームの影響で中学時代は競馬にのめり込んでいました。そんな中、競走馬の生産をする「静内農業高校」のTV放映があり、それを見て自分も行きたい!と思い、単身北海道の高校に進学しました。 畜産科という専門学科のクラスで、この学科は地元の牧場の跡取り息子や、日本全国の馬や競馬好きの少年が集まっていました。クラスの3分の2の生徒が地元を離れて来ていたことや、3年間クラス替えがないということもあり、みんな仲が良かったです。 そんな高校に入学したのだから真面目に勉強していたと思いきや、真面目ではなかったです(笑)。今思えばですが、小さいころから馬と触れ合ってきた牧場の跡継ぎたちに能力の差を見せられて、馬の世界で戦うのは難しいなと勝手に挫折していました。 少々やんちゃだったこともあり、4回も停学してしまい、卒業自体が危なくなるような生徒だったのですが、担任の先生や下宿のおばさん、クラスのみんながなんとか卒業させようといろいろと動いてくれました。本当にそんな感じだったので、その後の進路もなにも考えていませんでした。
仲の良かったクラスメイトたち
高校卒業後どう過ごしていましたか?
20歳でパパに!人生を変えた上司との出会い
高校卒業後は実家に戻り、2年間ほどプータローをしていました。この頃の私は、なにごとに対してもやる気がなく、本当にどうしようもない若者だったと思います…(苦笑)。 高校卒業してから2年ほど経ち、「家にいるなら、いい加減家賃を入れなさい!嫌なら出ていけ」と親から宣告され、しかたなく玩具メーカーの仕事に就きました。その仕事を始めた直後くらいに当時付き合っていた彼女(現在の奥さん)の妊娠が発覚。20歳で結婚することになりました。家族、子どもを養わなければならなくなり、生まれてはじめて責任感というものが芽生えました。 とてもラッキーだったのが、そのときの上司が、あんなにしかたなく始めたはずの仕事の楽しさや、営業とはどういうものかを教えてくれたんです。その後の人生にも関わる大きな影響を与えてくれました。 『お前はどうしたい?そのお客さんとどうなりたい?』 『会社の看板で仕事をするな。自分の看板で仕事をしろ』 『うまくいったら他人(ひと)のせい。うまくいかなかったら自分のせい』 上司の口癖は今でもよく思い出します。
長女と一緒に競馬場へ
WEB制作の道にすすんだきっかけは何ですか?
『ウェブ進化論』を読んで青天の霹靂。WEBの道へ。
玩具メーカーには3年ほどいたのですが、その上司が退職することになり、自分はこれからどうしようかと考え始めました。そんなときに、地元の友人から「これからはITだよ」と、『ウェブ進化論』という本を渡されたんです。読み終えたときにはこの業界に行く!と決めていました。当時の私にとっては目から鱗の内容で「こんな世界があったのか?!」「こんな世の中になったら面白いな!」と強く思いました。 ITやWEBの知識はまったくない状態でしたが、面白そうということだけで転職活動を始めました。当時24歳、ろくな経歴もなく未経験者でしたが、まだ設立4年目のバイタリフィという会社が自分を拾ってくれました。 ただ、入ってからが本当に大変で…。まず仕事に対するスピード感が圧倒的に違い戸惑いました。これまでPCにもほとんど触れてきておらず、知識もない…。営業で入ったのに、半年間受注ゼロ!という不名誉な記録を打ち立ててしまいました…。当時は本当に苦しかったですが、人生においてこれまでサボってきたツケなのだと自分に言い聞かせました。また、自分で望んで入ったのになにもできないまま辞めるのは悔しいという気持ちで、なんとかついていこうと必死だったことを覚えています。 成績は悪い癖に、良くも悪くも営業に対する信念だけはかたく、言うことだけはいっちょ前だったので営業部ではかなり煙たがられていましたね(笑)。ただ、制作部とは非常に仲がよく、初受注ができたときには制作部のメンバーがとても喜んでくれました。 現在弊社の役員でもある藤澤は当時の制作部のマネージャーをしていました。藤澤は当時から本当に優しくて、なかなか受注ができず苦しいときも夜ごはんに連れていってくれて「大丈夫だって!岩倉君ならその内受注取れるって」といつも励ましてくれました。家も遠かったので、よく藤澤さんの家に泊めてもらって、洗濯までしてもらってましたね(笑) そんな藤澤さんが弊社に来てくれることが決まったときは非常に嬉しかったです。 振り返ってみると、玩具メーカーで仕事に対する信念を学び、バイタリフィでスピード感とロジカルに考えるということを学んだ気がします。玩具メーカー、バイタリフィ…両者との出会いがなければ私の人生どうなってたか分からないくらい、本当に大事な出会いだったと思います。
起業したのはなぜですか?
制作はめちゃくちゃ楽しくなければならないと思っている
自分が思う最高の制作会社を作ってみたかったからです。 企業理念にも掲げていますが、社内のメンバーはもちろん、クライアントもパートナーも含めて、一緒に愉しめる人(価値観、考え方の合う人)同士で仕事をすることで、より良いものができ、みんなハッピーになれるのではないかと思っています。 経営的な観点でいくと、どうしても売上や利益を追求しなければいけないですが、そこにばかりにとらわれてしまうと、ギスギスした環境になりやすいですし、タスクにばかり追われて楽しくなくなってしまうんですよね。制作ってめちゃくちゃ楽しくなければいけないと思うんです。でも、自分たちと価値観の合う、一緒に愉しんで制作ができるクライアントをしっかりと選ぶことで、制作チームは作ることに注力できます。その結果クライアントの満足度も上がり、自然と売上も上がっていくという形を目指しています。 これを実現するためには、自分たちが高いクオリティを維持して提供できるものを増やし続けることが前提ですが、それはプロとして当たり前のことですし、自分たちを守るためにも必要なことです。 これらが上手くハマったときの仕事って、すごく楽しいものになると信じていますし、制作陣は楽しみながら(時に苦しみながら)クオリティを高めていく姿が理想だと思っています。