PRIDE設立、売却、そしてRIZIN立ち上げへ。“経営者・榊原信行”が生きた格闘技ビジネスの栄光、挫折、挑戦の半生
RIZIN
業界の第⼀⼈者に、事業成功の秘訣や経営のノウハウについて話を伺う企画「THE PIONEER」。今回ご登場いただくのは、総合格闘技イベント「RIZIN」を手掛ける榊原信行さんです。
PRIDE、そしてRIZINと日本の総合格闘技の歴史を築き上げてきた榊原さん。誰も歩んできたことのない道をただひたすら開拓してきた、まさにパイオニアとしての約30年についてお聞きしました。
男同士の真剣勝負に魅せられて。日本の総合格闘技史の始まり
プロレスラーのアントニオ猪木とボクサーのモハメド・アリによる、世界初の異種格闘技戦が行われたのは1976年のこと。それから17年後の1993年、2人の勝負に魅せられた少年の運命が変わりました。当時、東海テレビ事業でイベント事業を手がけていた榊原さんは、フジサンケイグループが代々木第一体育館で主催していた「LIVE UFO」というイベントで開催された格闘技イベント「K-1」の第一回大会を観て衝撃を受けます。29歳の出来事でした。
「屈強な男たちが殴り合っている迫力がとてつもなくて、これはすごいと思ったんです。僕が子どもだった頃、名古屋巡業に来ていたアントニオ猪木さんの練習を直近で見たことがあるのですが、そのときに似たインパクトがありました。しかも当時のK-1は、イベントの協賛スポンサーとチケット代のみで興行していて、どこもテレビ放送はしていなかった。そこで僕は知り合いづてに主催者である石井和義館長を紹介していただき、名古屋でK-1を開催できないか直談判させていただいたんです」
そうして榊原さんは、K-1名古屋大会の興行権と放映権を得ることに成功。1994年に名古屋市総合体育館レインボーホールで「K-1 LEGEND 〜乱〜」を開催します。これが日本初となるK-1のテレビ放送となりました。
「興行権と放映権を東海テレビが持つ代わりに、石井館長が持ったのがビデオグラム権。いわゆるVHSビデオを製造・販売する権利のことです。この監修を行なったのが、当時『格闘技通信』の編集長を務めていた谷川貞治さん。予想を大きく超えるヒットを記録して、以後の格闘技イベントにおける大きな収益源となりましたね」
その後、プロレスラー髙田延彦と柔術家ヒクソン・グレイシーの異種格闘技戦を実現するために奔走し、1997年10月11日「PRIDE.1」と言う名の二人の闘いの舞台を東京ドームに創り出す事に成功します。この大会が世間に大きな衝撃を与えたことからシリーズ化され、今でも伝説の試合として語られることの多いホイス・グレイシーと桜庭和志の戦いの舞台となった「PRIDE GRANDPRIX 2000」を2000年に開催。この世紀の一戦を機に世界中で人気が爆発し、PRIDEはワールドワイドなコンテンツへと進化することになります。
ちなみに、この戦いに感銘を受けた実業家のロレンゾ・フェティータは、プロモーターのダナ・ホワイトを誘い、アメリカの総合格闘技イベント「UFC」をM &Aする決断をしたとか。それほどまでに当時のPRIDEの影響は大きくなっていました。
総合格闘技の歴史をつくった男の挫折と復活
順風満帆かと思われていた榊原さんに逆風が吹き荒れたのは2006年のこと。週刊誌に掲載された記事をきっかけにフジテレビがPRIDEの地上波放送から撤退し、その後はドミノ倒しのように日本国内での信用不和が広がりました。
「記事の内容がデタラメであることは、僕自身がいちばんよくわかっていましたが、白いものを白いと証明する機会も時間も与えられませんでした。この事実無根の記事などに惑わされない人も少数はいましたが、一度失った社会的信用を取り戻すことはなかなか簡単なことではありません。銀行の融資が止まって資金繰りが一気に悪化したことと、本当のことに目を向けず噂だけで離れていく日本人たちの多さに、僕の気力も段々と失われていきました」
会場費やファイトマネー、広告宣伝費など、先払いで必要な金額は億単位にも及びます。にもかかわらず、収益を得られるのはイベントが終わってから。つまり、銀行からの融資が止まるということは、事実上のリタイアを求められることにほかなりません。万策尽きた榊原さんは、アメリカのUFCを主催するズッファ社にPRIDEの興行権を譲渡することを決断します。
「実はそれ以前から買収の話は何度か持ち上がっていて、その度に僕は首を縦に振らなかった。しかも2006年の10月にロサンゼルスでPRIDEを開催したところ、チケットはソールドアウト。コンテンツ力の高さが証明されたことで、ズッファ社のオーナーであるロレンゾ・フェティータもなんとかPRIDEを手に入れたいと本気になったのでしょうね。僕自身はかなり消耗していたし、僕の手を離れてでもPRIDEが継続していくほうが選手やスタッフを守るためにも最善だろうと考え、営業権譲渡契約書にサインすることに躊躇はありませんでした」
そうしてPRIDEの運営から離れることになった榊原さん。しかし、契約締結後にUFC側から契約違反の申し立てがあり、訴訟に発展。その結果、PRIDEは現在に至るまで一度も開催されることはありませんでした。そうした顛末の理由について、榊原さんは次のように推測します。
「僕は総合格闘技のグローバルスポーツ化をPRIDE当初から考えていて、その実現ができる相手としてズッファ社はふさわしいと考えていました。だから、買収の条件にPRIDEの継続開催を必須事項として挙げていた。一方のズッファ社は、PRIDE買収後に選手をUFCに移籍させ、大会数を増やすことでNFLや NBA、MBAなどのようにUFCを毎週開催し、アメリカ国内でメジャースポーツとしての地位を築きたかったのだと思います。そうすれば、全米で圧倒的な市民権を得ることができますから。それがこちらの思惑と相入れなかった。その結果、僕は選手にもファンにも嘘をついたことになってしまいました」
しかも譲渡時の契約事項に7年間は競業禁止という条項があったため、総合格闘技の世界に姿を見せることもできなくなりました。そうした事情もあり、榊原さんは沖縄初のJリーグクラブチーム創設のために尽力するなど他の業界で精力的に活動します。しかし、心の奥底では総合格闘技に対する情熱の火が消えないままでいました。
「契約書にサインをしたときは業界に戻ってくる気はなかったのですが、その後、PRIDEが消滅してしまったことで戦いの場をなくしてしまった選手たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだったし、手放してしまった後悔も生まれました。それを紛らわせようとしていた時期もあります。ただ、僕が総合格闘技の世界から離れた後に、大晦日の特番はおろか、地上波での放送もなくなってしまった。そうやって総合格闘技がお茶の間からどんどん締め出されていく状況を目にして、自分に何かできることはないかと考えるようになったんです」
総合格闘技にもう一度人生を賭ける。その決断を下した榊原さんは、競業禁止の期間が終わってすぐに動き出します。とはいえ、PRIDE全盛期から10年近く年月も経過しており、新興の格闘技イベントをすぐに開催できるとはかぎりません。しかも、越えなければいけないハードルもありました。
「僕のなかでこれだけはやらないといけないと考えていたのが、過去の問題をリセットし、汚名を挽回すること。つまり、放映を打ち切られたフジテレビに再度放映してもらう。それが最大の信頼回復になると思ったんです。ただ、その実現のためにはフジテレビが放送してくれるかが課題でした」
そうした不安を払拭したのが、かつてPRIDEをともに盛り上げた仲間たち。榊原さんの半ば無謀とも言える挑戦に対して、最大の舞台を用意してくれたのです。
「なんの実績もない総合格闘技のイベントに、大晦日のゴールデンタイムを用意してくれたんです。チャンスを与えてくれた多くの心あるフジテレビ社員の人たちへの感謝の気持ちが今でも大きな原動力になっていますね」
RIZIN始動。しかし、待っていたのは厳しい現実
2015年10月、格闘技イベント「RIZIN」がついに立ち上がりました。名前の由来は「ライジング・サン」と「雷神」から。榊原さんは実行委員長に就任し、他団体と競合しないで協調するためにフェデレーション(協会)として大会を運営していくことを発表します。
「フェデレーションの形態をとったのは、格闘技をメジャースポーツのひとつとして大きな祭典を開催できるといいなと考えたからです。サッカーのチャンピンズリーグのように各団体の王者たちがぶつかり合う。そのためには各団体を横断できる組織が必要になると思いました。しかも格闘技業界はまだまだ発展途上の段階で、ボクシングのようなプロテストもなければ、プロモーターのライセンスも必要ない。極論を言ってしまえば、素人でも運営できるわけです。この状況をきちんと整備していかなければいけないと感じました」
旗揚げ興行となる「RIZIN FIGHTING WORLD GRAND-PRIX2015 さいたま3DAYS」は、2015年の12月29日・30日・31日の3日間の日程で開催。エメリヤーエンコ・ヒョードル、桜庭和志、青木真也、ボブ・サップといったPRIDEの全盛期を支えた選手たちが多数出場するなど、これ以上ないほどのスター選手たちと共に最高のスタートを切ることになります。しかし、思わぬ誤算も。
「当然ながら以前とはビジネス環境が変わっていたんです。なかでも大きかったのは、かつて収入の柱となっていたDVDやPPV(ペイ・パー・ビュー)が思うように売れないことでした。またスマホ全盛となったことで、かつてのように壁紙や着メロ、着ボイスといったモバイル収入も見込めない。とはいえ、運営を継続するためにはお金が必要なので、新たな収入源をつくらなければいけません。そこで取り組んだのが、大会スポンサー収益の強化です。格闘技を愛する企業にもっと協賛してもらおうと考えました」
そのために榊原さんが取り組んだのが、世代交代と日本人選手の活躍の場を増やすこと。なかでもRENA、山本美優、浅倉カンナといった女子格闘技の路線に力を入れたほか、那須川天心の参戦を機に軽量級にもフォーカス。ほかにもアメリカを主戦場にしていた堀口恭司を呼び込んだり、朝倉未来・朝倉海の兄弟格闘家を発掘したりと続々とスター選手を輩出します。また、オンライン配信を活発化させ、YouTubeチャンネルも開設するなど、デジタルネイティブでも気軽に楽しめるコンテンツも提供するようになりました。
「人の琴線に触れるものは今も昔も変わらないと思っているんです。しかも現在は、自分たちでプラットフォームを持っているので、PRIDEの頃より環境は整っている。だからこそ、世界中の人が振り向いてくれるコンテンツをいかに創造し、どのようにして届けるかが重要です。なかでもYouTubeに関しては、若い世代にRIZINを知ってもらう大きな機会になっているので、すごく重要視しています」
RIZINの熱を世界へ。そして、考える次世代のこと
着実にコンテンツパワーを高めているRIZIN。現在は、チケット収益に依存しない形で大会を運営できるようになりつつあるそうです。一方で、2020年以降は新型コロナウイルスの影響で思うように興行が組めないこともありました。そうした逆境に立たされながらも、榊原さんは歩みを止めません。RIZINのグローバル展開を進めるとともに、各国に最低でも一人はスター選手を輩出したいと意気込みます。
「僕はとにかくエクストリームなことがしたいんです。日常を非日常に変える。それを具現化する場がRIZINなので。しかも世界で主流となっているオクタゴン(※金網が張られた八角形の舞台)ではなく、リングの試合にこそロマンがあると思っています。ロープのファジーな感じがドラマチックな状況を生み出す装置になるんですよ。その魅力を世界に向けて発信したいですね。また、ゆくゆくはスポーツベッティングのシステムを取り入れて選手に還元していける仕組みもつくりたいと考えています」
総合格闘技に人生の大半をかけてきた榊原さんも今年で58歳。「引退」の二文字が時折よぎるなか、プロデューサーの育成にも力を入れるようになりました。
「格闘技がビジネスとしてきちんと成立しているのは、日本とアメリカくらいだと思うんです。でも、どうせ取り組むなら全世界に向けてこの熱を波及させたいじゃないですか。そういう気概のあるプロデューサーを、僕がまだ現役で世界のプロモーターとネットワークのあるうちに育てたいですね」
榊原信行(さかきばらのぶゆき)
イベント情報
Yogibo presents RIZIN.30
日時:2021年9月19日(日)12:30開場 / 14:00開始
※試合内容、イベント進行によって終了予定時間が前後することがありますのでご了承ください。
RIZIN LANDMARK vol.1
日時 2021年10月2日(土)19:00開始(予定)
※開始時間は予定です。決定次第RIZIN FFオフィシャルサイトにてご案内します。
撮影/武石早代
取材・文/村上広大
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